昭和四十五年七月二日 朝の御理解
御理解第二十一節 「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともなねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。」
昨日から、夏期信行が始まっております。昨日の御祈念の後の御理解に、十九節でしたがあの中にこういうところがありました。「金光大神も楽、私共もおかげの早道でもある」という。金光大神は形がのうなったら、来てくれという所へ行ってやるとおっしゃる、ですから来て頂く為には私共が一歩でも金光大神に近ずいとかなければならん。近ずいておくという事は、金光大神もそれだけ楽なんです。
例えば、十里の道を五里ですけばそれだけ金光大神も楽であるし、又私共もそれだけ早くおかげが受けられるおかげの早道でもあるという訳です。ここにちょっと矛盾を感ずるようにむあるですけれどもね、そこは決して矛盾ではないのです。金光大神は形がのうなったら来てくれという所へ行ってやるとおっしゃるのは、もう世界中どこの隅々に到る迄も金光大神の御神徳というのはですね、いわば時間なければ空間もないというほどしの、御神徳を受けておられるという事。もう生神金光大神を唱えたところにはです、それこそ天かけり国かけり遠い所もなからなければ天地の親神様が祈る心にふれてなくさえいれば、遠い所も近い所も清い所も汚い所もないとお教えられると同じように、どういう所から金光大神を祈り唱えてもです、来てくれという所には行ってやるとおっしゃるのはそういう事だと、そういう事を時間空間を問わない自由無碍の働きを顕して下さるという事という風に…事実そうなんです。
そんなら次に、わざわざそんなら金光大神に出来るだけこちらが近い所にこちらが行っとかなければとか、又はそれは金光様は金光大神は楽であんなさるとか遠い所よりか近い所が楽であんなさるとかと云うような又それをおかげの早道であるとか云ったような事は非常に矛盾ですけれども、それは私は言葉のニュアンスだと思うのですね、ここんところは。ね、そのつもりでおかげを受けるのですね。でそのところを例えば「信心せよ、信心とはわが心が神に向かうのを信心というのじゃ」とこの二十一節。ね、信心とはわが心が神に向かうというのは、信心とは、わが心がそこへ向かって近づいて行くという事。今も昔も変わりはないでしょうけれどただ表現がですね、それが許されない事になって来ておりますけれども、教祖の御時代にはだんだん信心が進むと御神格を下さった。神様からお伝えがあると、するとお前は金子大明神、ね。例えば西六の高橋とみえという先生等は明神様と申し上げ、金光大神に対する明神様というほどしに高い御神徳を受けられた。才崎の斉藤又三郎先生等は金光大神を受けておられる。片岡次郎、四郎先生でも同じである。やはり金光大神という高い御神格を受けておられる。教祖様はそれに生神金光大神という御神格、もう至高のものですね、最高の御神格です。いわばそれは天地金乃神と同根というところまでの御神格。ですからこれはもうそれこそ、なら氏子が金光大神と願う所にもう時間もなからなければ空間もないほどしのおかげを以て、そのおかげを現して下さることの出けれるだけの御神徳であり御神格、最高の御神格。その最高の御神格でも皆もこの様なおかげが受けられるとおかげの受け始め、そういう手本をお示し下さってある訳です。
教祖様の御信心始めの頃、したばの氏子という風に天地の親神様は教祖を読んでおられます。又は神門柏手と‥柏手神門か、柏手をされると神様が心を開いて下さるという程しのいちいちお伝えを聞いて下さるというような、それは御神格の初歩の様なものである。したばの氏子、柏手神門、金子大明神とか金光大権現とかという風に段々御神格が一段一段お進みになっておられます。だから今日私がいうのは、そういう意味なんです。信心せよ、信心とは、わが心が神に向こうていうなら金子大明神から金光大権現と云ったような風にです、一段一段進んで行くのである。それは百十年前だって今日も理屈は同じ事、お徳を受けるという事はそのお徳の段階、それを例えば人間で神様と云ったような明神様とか権現様と云ったような言葉を許されなくなった。けれどもやはり、だからそこにね今でも神様はそれぞれの私共の上にでも神格というかね、ようなものを定めておって下さるとこう思いますね。そういう一段一段と段を上がるように信心が神に向こうて行くという事が信心じゃという。
「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ」でないとですね、私共の信心の徳というものが段々頂けてまいりませんと、それこそ神徳の中におっても氏子に心なければおかげはなし、と云う事になる。御神徳の中にあってもその御神徳を御神徳と自分の心に頂ききらんのです。これは信心が進めば進む程、例えばおかげならおかげを頂いてというその言葉ではおかげを頂いてなんだけれども、おかげを頂いてというその事がですね、実感の度合いが違う訳です。
昨日もお月次祭を終わらして頂いた後で、昨日は前講を久富繁雄さんが務められました。先月の信心の焦点でありますところの「仲良う楽しゅう有り難う」と先生がおっしゃられたからひと月はもうその事に取り組ましてもらい、家族中の事もその事をいつも焦点にして信心を進めてまいりましたけれども、ひと月の事を振り返ってみると目の粗い事でございました。と、それに本気で取り組んでおった者のひと月を振り返ってみて目の粗い事でございましたけれども、おかげはそれこそこの位の信心ではございますけれども、この様なおかげを頂いたと、例えば麦の取り入れにいたしましてもお天気の間に二日間で取り上げてしまい、もうからまでも取ってしまわれた、お天気の間に。今年は屋根替えをせなければならんというお届けがあっていましたが、屋根替えをされるためにゃやはり麦わらもぬらしては出来なかった。よそあたりは立ったなりもう取られんごとなったとか、刈ったばかりで腐らしたとかいう人が村にもたくさんあるのにもかかわらず私の方ではそのようなおかげを頂いた。しかも、田植えの時には全然おかげで降らず照らずといった様な中に田植えを終わったと同時に、あの雨風ございましたと。まあひと月の事を振り返ってみますと、なるほど信心をそこへ焦点を於いて信心を進めてはまいりましたけれども、振り返ってみると目の粗い事であったけれどもおかげはこのようにして頂いたと。とそういうおかげ話を発表しておられました中に、あの田植えの時に二つになるお孫さんがね、もう乳母車の中で最近は非常に走って歩かれる位の、ですからもうやんちゃで悪そう坊主です。それがちゃんと乳母車の中で親の手も取らずにです、機嫌良う田植え中遊んでおったという事をです、嫁御は「ほんにあんたも、こんだ田植えん時にゃおとなしゅうしとったけん良かった」と云うて喜びよった。だからお爺さんの久富さんだけは、もう、とてもとてもこれがただの事とは思われん。神様がそれこそお守りをして下さった証拠だと、もう田植えの済む日だったそうです。そりゃ昨日お祭りの後に「私はもうその事を思い出させて頂いたら胸のいっぱいになってお話が出来ませんでした」ち云うてお祭りが済んで話しておられるんです。「それかですね、機嫌良う遊びよんな、とすると夕方ですね、あの何かぐずぐす云よるなあと思いよったら、おやつとおもちゃを両手に持ってちゃんと眠ってしもとった。ああ神様がぐずぐず云よるごたあと思いよったら「ああよかよか」と云うてですたい、寝せらかして下さったと思うた」と、お説教台の上に立ってから「あん時もほんとにただ機嫌良うふうがようしてこまごつ云わじゃったっちゃなくて、神様がちゃんと御守護の中に、いや勿論それこそお守りを天地の親神様にして頂いておった、あの寝とる姿をちょっと思い出したらもう胸が先生、いっぱいになってどんこんお話が出来ませんでした。」と云うて後で話しておられました、ね。ですから嫁御はほんにふが良かった位でしょうが、ね。何日間でん麦取りから田植えにかけて、しかもその孫の守まで親神様にさせておきながらそこん所を感じていない。だから神徳の中にあっても、そういう神様の特別の働きの中にあつても、氏子に心なければ、それをおかげと感ずる事が出来ない。おかげを感ずる事が出来ないから有り難いものも生まれてこない。勿論それではおかげが受けられんとおっしゃった。おかげをおかげと実感させてもらって、もうほんとに田植え、取り上げの天気の事は云うに及ばず、こういういわば人間が一人かかっとかにゃならんごたるやんちゃな坊主のお守りまで神様がして下さったと思うたら、思うただけで胸がつまる程に有り難いものを感じる。信がありゃあこそ、そこのところの
有り難いものがキャッチされた。さあ、それをキャッチされたら又途端に感激しておられる。神様がそこを分かってくれておったのかという、神様のお喜びでございましょうねえ。
だから私共がね、信心とはわが心が神に向かう、『信心せよ。信心とはわが心が神に向こうていくのを信心というのじゃ』というのに、十年たっても二十年たってもお話は頂いておっても信心ちゃおかげ頂くもんのごと、御無理を申し上げるもんのごと思うて、自分の信心は一歩も前には進んどらん。それではね、それこそおかげの中にあっても、それをおかげをキャッチする事が出来るのです。神様のお働きと分からん、だから必ずそこのところには御礼不足になり、お詫び不足になり、いわゆる修行不足になってしまう。こんな事じゃあ相すまんという心が起こってこん。『氏子に信なければおかげはなし』その信という事が大事。神様のおかげを信ずる。昨夜のお説教のテーマがそれでした。『神を信ずる氏子は多いけれども、神に信じられる氏子が少ない』という御教えにもとずいての御教えでございました。神を信ずる・・・やはり、もう何年も信心をしとります、合楽には毎日参っとりますという程しの人なら神様をある意味に於いて信じておるから参って来よる、けれどもその神様を信じておるという力は、もう千差万別である。十、信じている人も百、信じている人もいわば稽古の為にひとつ本気でこの月の信心の焦点を修行月として本気で修行させて頂こうじゃないですかと、いったような御理解でございました。
そこで私は、今日そこに塗板に掲示してあります「金光大神藻楽、私共もそれがおかげの早道だ」というところ、一歩でも私共が神様に近づいておくという事は、どういう事かと云うと信ずる力をね五十よりも百、百よりも千頂いておけという事なんです。金光大神に近づいておけという事。そこんところが分かってくると、そうすると矛盾ではなくなってくるのですね。遠いも近いもないならどこかで「金光さまー!」と云や行ってやるとおっしゃるから、もうここで頂いたがよかと…行って下さっておかげを下さっても、そのおかげをおかげと信ずる事が出来ない。だからその信ずる力というものをです、私共がもう限りなくそれを求めて稽古をさせて頂くところにです、昨日私が大川のえつという魚の由来をお話申しましたように、笹の葉ですらです、川に投げ込まれた、これが船の渡し賃だというて渡された。そのよしの葉がです、今に残るあのえつという、もう霊妙不可思議な魚とされています。この魚は、もうある一時だけにしかないという魚なんです。又その旬の時だけしか食べられないという魚なんです。それがお大師さんのいわば信の力によって、そのえつという魚が出来たというお話。
例えば笹の葉がですよ、魚になる。馬鹿のような話だけれども、信のところにはそういう働きがあるという事。例えばキリストが死人をよみがえらせたと云ったようなのもやっぱそれなんです。そういう小さい例は、ここでもたくさんありましょうが。それはいうならば信の力がそのように、いわば奇跡を呼んだ訳なんです。ですからその信の力というのが五十のもの、百のもの、千のもの、万のもの、ですから「金光大神!」と云う所には金光大神が来て下さるけれども、それを信じきる人の上にです、だからおかげが早いという事が分かるでしょう。金光大神に一歩でも近づいておかなければ、なる程、近づいておれば近づいておる程金光大神もおかげが渡しようあんなさる、又こちらもおかげの頂く早道でもあるという意味が分かるでしょう。
『氏子に信なければ』と例えば久富さんがお祭り後に云うておられるその事がです、嫁御は「ほんにうちは、ふうがよかった」としか思うてない。するとお爺さんはとてもとても信心も出来んのに、神様はこのようなおかげを下されてと感激しておられる。しかもその孫のおとなしかったという事には本当にこうやんちゃ坊主をです、天地の親神様がそれこそお守りをして下さっておったと実感された時です、もう胸がつまる程の感動、又は感激に浸っておられる。それがおかげにならんはずがない。ここんところはそういう意味だと思う。いうなら、それだけ金光大神に近づいておられる。そこんところをですね、私は今日皆さんに分かって頂きたい。
『信心せよ。信心とはわが心が神に向かうのを信心しいうのじゃ』と神徳の中におっても、だから御神格が一段一段進められていくという事は、金光大神に近づいていきよるという事。だから神様に出来るだけ近づいて百よりも千、千よりも万という信の力を頂く、「信なければ」というのはそういう信。「神徳の中にあっても」と神様のそれこそ微妙たえなるところのです、お働きの中にあってもそれをおかげと実感しきらんという事。それを、おかげをおかげと実感しきらんからおかげにならんという事になってくるのでございます。
今日はその辺のところをですねえ、皆さん合点して頂きたい。そして私の信心が堂々まわりばっかりして、それこそ一段一段神様へ向かって進んでいくという信心をしていない。参ってはおる、拝んではおる、頼んではおるけれども、本当に自分の信心を進めていこうとはつとめていない。日参り夜参りはしよっても、おかげを受けなければならんけん参りよると、では信心は進まん。
ここにはなる程、信心の稽古に来る所なのですから、そこに何か難儀なら難儀、問題なら問題といったものが、その信心の手がかりともなり足がかりともなってです、一段一段信心を進め登っていかなければならない。その事がです、同じ事柄であっても、百有り難かったのが千も万も有り難うなってくる。というようにおかげを有り難いとなってくる。その有り難いという心が又、次々とおかげを呼んでいく訳であります。
今日は勿論、後のところも同じ事でございますけれども、信の力、信はそのまま光でもある訳です。光がなからなければやはり、世界は闇とまで、信心なければ世界は闇なりとまでおっしゃっておられます。私共心の中にです、信心の光、それは神様を信じてやまない心。その信じてやまない心が五触光位にしか信じてない人、百触光位に信じておる人、千触光万触光という程しに信じておる人、それがそのまま光なのだ。どういう暗い所に立たされても、自分の光をもって不自由する事のないだけのおかげを受けられる程しの事をここでは教えておられます。
今日はとりわけ、神徳の中にあっても氏子に信なければという事。その信というのは私共が、信心せよ、信心とはわが心が神に向こうていくのを信心というのじゃというように、もし神格という事が許されるなら私共はですね、そういう風に例えば、ここまでは神格を自分が頂いておると思えれる程しにです、信心が一段一段、まあ剣道か柔道のように初段から二段、二段から三段と段をもらえれる事が稽古の楽しみであるように、信心もそういう進め方をさせて頂くところにね、
信心の有り難さが分からしてもらうおかげを頂きたい。
「氏子に信なければ」とおっしゃる。信、それは神様を信ずるという事。信ずる力がなければ、なる程、力があればある程金光大神に近づいたという事になります。だから、神様も金光大神も楽、又私共もおかげの早道であるというそこのところを、今日はよく分かって頂きたいと思いました。どうぞ。